国土交通省は2020年7月17日、宅地建物業法施行規則を改正し、不動産取引の重要事項説明に、水害ハザードマップ上の所在地を盛り込むことを義務付けた。物件を買う側としては、水害リスクがどのくらいあるかを不動産会社がしっかり説明してくれるということだ。これまで、ハザードマップは提示義務としては緩やかであり、不動産会社に半ば一任されていたが、「必ず説明しなさい」と明確化したのだ。

 

これにより、不動産市場へはどのような影響が生まれるのであろうか? 現時点では、「特に影響はない」のかもしれない。それはなぜなのか、近年の水害と治水の営みを振り返りつつ考えてみたい。

 

(写真はイメージです)

 

2019年、タワマンの悪夢。しかし、価格下落は起こらず

 

2019年10月、「令和元年東日本台風」が関東から東北の広い範囲に激甚な被害をもたらした。東京では多摩川が一部氾濫・越水した。世田谷で死者が出たほか、神奈川県川崎市の武蔵小杉ではタワーマンション2棟に被害が出た。特にエレベーターやトイレが使用不能になった1棟のタワマンについては、管理組合の対応のまずさもあって、その後も長くメディアで報道され続けた。

 

2020年2月になって、武蔵小杉エリアのタワマン11棟の管理組合が結成したNPO法人が、川崎市に対して要望書を提出。その中に「多摩川の水害対策を行った上でハザードマップの見直しを」という項目が入っていたことで、世間の失笑を買っていた。ハザードマップで「水害の危険アリ」と分類されることで、資産価値に悪影響が生じることを懸念したのであろう。いかにもタワマンの住民らしい発想である。

 

当時、武蔵小杉エリアのタワマンは資産価値の下落も一部で指摘されたが、実は昨年の10月以来、取引件数は少なくなったものの価格的な下落傾向は今のところ認められない。水面下では生じている可能性はあるが、表面上は誤差の範囲である。

 

要するに、ハザードマップの危険エリアにあるからと言って、また1回くらい水害に遭ったからと言って、急激に資産価値が下がるわけではないということだ。

 

しかし、ここ1~2年のうちに再び台風や大雨によって昨年と同様かそれ以上の水害が発生すれば、価格は暴落に近い状態になるだろう。ハザードマップで指摘された危険性が、可能性ではなく現実化するからだ。しかも2度も発生すれば、人々は3度目の発生を確信する。

 

そんな場所でマンションを買おうとする人はいなくなって当たり前だ。ハザードマップ云々ではなく「武蔵小杉のタワマン」全体が事故物件扱いになってしまう。

 

「江戸川区のほとんどが水没」と書いた真っ赤なハザードマップ

 

現在、東京23区では、江戸川区や江東区は区域の多くがハザードマップ上では「危険地域」になっている。

 

江戸川区では区域の大半が危険エリアで、ハザードマップは真っ赤。(大規模水害発生で)「江戸川区のほとんどが水没」と書かれているし、区内を歩けば「ここにいてはダメ」という表示まで出ている。しかし、どこに逃げるべきかという具体的な指示はない。

 

江東区の区役所の前には「荒川水位表示塔」というものが立っている。現在の荒川の水位を表示するとともに、かつてあった水害時の異常水位を示して、水との戦いを語るモニュメントにもなっている。何回か見たことがあるが、過去の水害時の水位を見ると少し怖くなってしまう。「こんなところまで水か来ていたのか」と思うのだ。

 

十数年前に木場にある釣り船屋さんを取材したことがある。そこのご亭主(当時60歳前後か)が言っておられたが、彼のおじいさんの代には都合2回津波にあったそうだ。

 

このように、ハザードマップが真っ赤なエリアには、水害の歴史が刻まれているのだ。

 

東京の水害は上流の治水施設が食い止めてきた

 

果たして「令和元年東日本台風」では江戸川区や江東区の危険地域に避難勧告が出た。しかし、実際に避難した人はごく少数であった。さらに、ほとんど被害は出なかった。心配された荒川では、水位が河川敷にすら達していなかったのだ。

 

その直後にいろいろと調べてみると、荒川の上流では水害対策がさまざまに施されていることが分かった。主なものは、通称「地下神殿」と呼ばれ埼玉県春日部市にある「首都圏外郭放水路」と、さいたま市から同県戸田市にかけて広がる「彩湖(荒川第一調節池)」だ。

 

「地下神殿」は2006年、地底50メートルに造られた世界最大規模の放水路で、雨水をため、川の氾濫を防ぐ。彩湖は埼玉県の荒川河川敷に1997年に整備された調整池で、中流で降った雨を貯めることができる。上流遠くには民主党政権時に建設が取りやめになりかけた八ッ場ダムがある。

 

八ッ場ダムは台風が襲来する直前の2019年10月1日から試験湛水(貯水)が始まっていて「八ッ場ダムが荒川の氾濫を防いだ」との声が上がった。まさに間一髪で間に合ったのだ。やはり、大きな川は治水が必要ということなのだ。

 

武蔵小杉のタワマンを被災させた多摩川も、世田谷・川崎の両岸側で対策が進んでいるはずだ。少なくとも、同じような被害は二度と起こらないと期待したい。

 

一方、地方で治水が不十分なところではやはり被害が出ている。

 

最近、熊本県では球磨川が氾濫して大きな被害が発生した。球磨川といえば日本三大急流に数えられるが、こちらでは「川辺川ダムができていれば被災しなかったのでは」と悔やむ声が出ている。現職知事が2008年に川辺川ダムの建設計画を白紙撤回し、翌年に民主党政権が建設を中止したのだ。当時は公共工事悪玉論がはびこり「コンクリートから人へ」という奇妙なキャッチフレーズが新聞に躍った。時代の空気はそう傾いていた。

 

また、三大急流といえば山形県の最上川もそのひとつで、松尾芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだが、同様に堤防工事に遅れがあり、7月に氾濫して被害が出ている。

 

ハザードマップは金科玉条ではない。被災した事実がすべて

 

ハザードマップが示しているのは、あくまでも水害が発生する「可能性」である。実際に水害が発生するかどうかは、なってみないとわからない。したがって、家探しにハザードマップを金科玉条に考えるのは早計だろう。

 

それよりも、治水と向き合ってきた人間の営為こそ重視すべきだろう。実際、ヨーロッパには海抜1メートルながら美しい水都として知られるベネチアのような都市もあるし、オランダに至っては国の半分が海抜1メートル以下、マイナスのエリアもあるが、まさに1000年以上も水害と戦いながら栄えている。

 

以上、近年の水害と治水を振り返ってきたが、今のところハザードマップの重要事項説明義務化が即座に不動産市場に影響するとは思えないというのが結論だ。やはり「論より証拠」ではないか。可能性が現実となる事象がいくつか起こったとき、ハザードマップへの信頼性が増し、住まい選択に欠かせないツールとなりうるだろう。

 

7月は史上初で台風が発生しなかったが、今シーズン、これからどんな台風がやってくるか、どこに被害が出るかは重要なポイントになりそうだ。

 

 

榊淳司(住宅ジャーナリスト)
1962年生まれ、京都府出身。同志社大法学部および慶応大文学部卒。不動産の広告・販売戦略立案の現場に20年以上、携わってきた。一般の人々に分かりにくい業界内の情報や、マンション分譲事業の仕組み、現場担当者の心理構造などをブログ上で解説。近著に『2025年東京不動産大暴落』(イースト新書)、『マンション格差』(講談社現代新書)など。最近は不動産を中心とした時事問題解説系YouTuberとしても活躍している。